慈恵医大の方から狛江ショッピングセンターへ足を踏み入れたとき、私はいつものように、時の流れを見失う。昭和の残像が、夜の闇に淡く浮かび上がる。スナックの灯りが点々と現れ始める頃、右手の建物の二階に、その店はあった。名を「Table 43」という。

階段を上がると、扉に小さな案内が貼られている。そこには月曜定休の記載があるが、その文字はまるで霧に包まれた標識のように、虚実の境をあいまいにする文字であった。実際には火、水、木が休みだという。またしても狛江ショッピングセンターで不思議な気持ちになってしまった。定休日の記載が実際と異なるのは、怪しい人物を拒む戦術か、あるいは単なる気まぐれか。入店にはドアのチャイムを押さねばならぬ。私は一瞬、自分が怪しい人物に見えはしないかと自身の風体をぐるっと見回してからチャイムを押した。何が「怪しい」のかは不明である。次回、訊ねてみるとしよう。
ドアが開くと、電球色の光が柔らかく私を包んだ。明るいが、決して安蛍光灯のような青白い俗っぽさはない。正面には五人ほどが腰を下ろせるカウンター。右手にはもう一本、二、三人分の席があり、その端には六、七本の焼酎の一升瓶がどどどっと鎮座している。


陳列と実用の境界を曖昧にしたその光景は、どこか静謐で、どこか恣意的だ。店主の動線を確保する機能性と、のん兵衛の心を誘う旨そうなラベルの展開がそう思わせのだろう。
正面のカウンター内側には二段の酒棚。ウイスキー、ジン、焼酎が整然と並ぶ。イチローズモルトが五種もあるのを見て、私は店主の嗜好を推し量った。ジンはタンカレー10が目を引く。通常のタンカレーではなく、10であるという事実は、彼女がジンにも深い関心を寄せている証左だろう。
今夜最初の一杯はアードベック。アイラのピート香が鼻腔をくすぐり、遠い海霧を思わせる。二杯目には「ザ・ボタニスト」を選んだ。アイラ島の野生のボタニカルを二十二種も用いたジンである。複雑な風味が舌に絡み、後味は清冽だ。ウイスキーと同じポットスティルで蒸留されるという話を聞き、私はこの島の蒸留文化の奥行きを思った。
しかし、この店の真骨頂は酒ではない。料理である。店主は四十代の女性。一人で切り盛りしながら、手間を惜しまぬ料理を供する。祖母が出汁を丁寧に取る姿に影響を受けたという。なるほど、品書きを見れば納得する。牡蠣の酒蒸し、野菜と魚、オリジナル焼売三種。さらに、しっとりむね肉、豚バラ新しょうが巻き、パリパリタコスピーマン、甘い玉子焼き、湯豆腐、まぐろホホ肉の生姜焼き、酒盗和え、梅くらげとり肉和え、豚ロースにんにくみそ、焼き魚、みそきゅう、ぎんなん。〆には夜のラーメン、稲庭うどん、丸っこい土鍋で炊かれたつやつやで粒立ちの良いごはん、そこへ赤だしが追い打ちをかけ、しかも値は良心的だ。料理が仕事で疲れた心の穴を埋め、復活への足掛かりを実感させてくれる。
カラオケはない。静かに飲める。壁掛けテレビには地上波の番組が流れていた。食事を主にして、一杯だけ添えるのも悪くない。
店主は気さくで、年齢より若く見える。医療事務をしていた過去もあるというが、人生の細部は語らぬ方がよいだろう。客と店主の会話は絶えず、私もその輪に加わった。気づけば最終バスの時刻である。もう一軒ハシゴししてみたいなと思っていたが、この店の居心地が良すぎたのだ。
「Table 43」は、時を忘れさせる場所である。昭和の温もりが残る狛江ショッピングセンター。ご近所の方は、親しみを込めて「コマショ」と呼ぶ。そのトワイライトゾーンに、私はこの夜も確かに迷い込んだ。そして、心地よく飲み込まれ、なにかゆがんでいたものなのか、ひずんでいたものなのか、良からぬそれが肩から剥がれているな、と頬の肉を上に寄せながら、この街をあとにした。

今回訪れたお店:Table43